COLUMN
この師匠からの卒業
引き続き、野村克也関連のニュースで溢れている。
続々と寄せられる追悼コメントの中で、目にとまったのは伊東勤のもの。
コメントと言うよりも
「残念ですね」。そう言うと絶句。大粒の涙を流した。
ってとこ。
映像を見たわけではないのでよく分からないところもあるんだけれど、涙を流すほどの思い入れがあったことに驚いた。
披露されたエピソードを読んでも、泣くほどの関係とは思えない。
(こちらも映像を見たわけではないんだけど)古田敦也の淡々としたコメントとの対比が興味深い。
ぼくはかねてより、野村と古田の関係には問題があったと考えている。
もちろん、世間で言われるように、古田が一流選手になれたのは、野村の教えがあってこそだとは思う。
と同時に、監督として、(選手兼任であったことを割り引いて考えても)結果のみならず大した成果を残せなかったのは、古田の能力よりも、野村の存在に理由があるのではないかと考えている。
Sportivaの「西武×ヤクルト“伝説”となった日本シリーズの記憶」という特集記事において、伊東が証言している。
僕も古田も、お互いにキャッチャー出身監督の下でプレーしていたので、「秘蔵っ子」とか「教え子」というフレーズを何度も目にしましたけど、僕はすごくイヤでした。たぶん、古田も同じ思いじゃないのかな? 世間では「師弟愛」のように思われていたかもしれないけど、実際には森(祇晶)監督との衝突もありましたし、そんな単純な話ではないんですけどね(笑)。
野村はその著書で(どの本だったか忘れたので正確に引用出来ないが)、古田のことを「挨拶がない」「年賀状も寄越さない」「(2000本安打の際の)インタビューで私(野村)のことを聞かれて仕方なさそうに答えていたので嫌な気持ちになった」というようなことを書いている。
野村自身は「功は人に譲れ」と言い続けたが、古田に功を譲る気はさらさらなかったと思う。もちろん、古田にしても、野村に功を譲りたくはなかっただろう。
おそらく、プロ野球のような世界では「功は人に譲れ」などというマインドでは、超一流の域には到達出来ないのだろうと思う。
「野村は人を遺した」と言われる。
否定はしないが、指導者となった野村チルドレンは、やや小粒な印象がぬぐえない。
野村がヤクルトの監督を務めた9年間、後半の5年で古田に功を譲り続けていたら、古田は名監督になれたのではないかと思う。選手としても、さらにもう一段上の成績を残せたのではないか。才能は十分にあった気がする。
しかし野村は、古田が捕手として自分を超えることが許せなかったのだろう。現役時代、王貞治にホームラン記録を抜かれ「王さえいなければ」ということを、終生言い続けたのと同じように。まぁ、そういうところが野村のスゴさの源泉でもあるのだろうが。
野村好きのぼくが、野村に対して唯一残念に思うのが、古田との関係だった。
もちろん、古田には伊東のように「イヤ」と言えるだけの胆力がなかったという見方も出来るのではあるけれど、それはそれとして、人を育てることそれ自体より、人を独り立ちさせることの方が難しいのかも知れないな、ということを思った。
2020年2月16日