COLUMN

 


映画「万引き家族」

映画「万引き家族」を観た。
家族もの。
公式サイトには「犯罪でしかつながれなかった家族」とある。
うーん、そんなハナシじゃないんだけどな。

公式サイトの記述に「そんなハナシじゃない」もへったくれもないんだけど、でも、そんなハナシじゃないよ。
この家族、もし、何らかのカタチで十分な生活費が手に入るなら、犯罪とは無縁に生きていくだろうと思う。だから、「犯罪でしかつながれなかった家族」というのは、ぼくはミスリードな気がする。

この家族の最大の特徴は、正式な家族ではない、ということ。
正式でないとはどういうことかというと、各種届け出を済ませていない、ということ。
そりゃそうだ。虐待され家から閉め出された幼い女の子を、かわいそうだからという理由で連れ帰り、家族に加えてやるのだもの。そんなのどこにも届けられない。他のメンバーもそれぞれワケあり。非公式家族。非公認家族。梨汁ブシャー。

正式な家族ではないけれど、楽しそうな家族。確かにそこに存在する絆。
しかし正式でないが故に、ある事件をきっかけに、家族は法によって、正式に、バラバラに引き裂かれる。
この映画には、万引き家族以外にも2つの家族が(ちょろっと)登場する。その2家族では、すでに家族間の人間関係は破綻しているけれど、正式な家族であるが故に、法によって家族としての体裁は守られている。

強く結ばれているが、正式ではない家族。
実質的に関係の破綻している、正式な家族。
そういう構図で描かれるので、勢い、法の不備、矛盾などに思いを馳せざるを得ない。あるいは、法治そのものとか、近代国家という枠組みで考えてしまう。

昔は法などなかった。
「羅生門」の頃は「引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣」があったわけだし、「この世界の片隅に」の主人公は、孤児を拾って家族に迎え入れている。
仮にあっても、デタラメな法だった。
闇市の闇米を拒否して配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で餓死した裁判官がいた。

そんな歴史を振り返れば、現代であっても、法の正当性は決して自明のものではないことに気づく。法律を遵守することよりももっと大切なことがあるよね、という結論に至るのが、本作を観ての、フツーの感想ではないだろうか。

そんな感想に加えて、もうひとつぼくが思ったのは、最後に家族がバラバラになった点。あれが良かった。
これはまだよく分からないんだけど、家族の本質って、離合集散なんじゃないだろうか。
それは、家族のもとに生まれ、最後は一人で死んでいくという意味でも良いんだけど、そうではなくて、バラバラが前提であるからこそ、何かを共有することに価値がある、みたいな。いや、よく分からないけど。

そして、家族はバラバラになるんだけど、子ども達はなんとなく成長していってるんだよね。
昔から言う、親は無くとも子は育つ、って奴。

だから、家族だから一緒にいる、みたいな考え方は棄て、一緒にいたいから一緒にいる。むしろ、いま一緒にいる人こそが家族だ、くらいの心持ちでいられたら良いな、と。
誰かを家族に縛り付けるのも、自分が家族に縛られるのも、良くないことなんじゃないかなって最近は思っています。

素晴らしい映画なので、オススメしたいんだけど、意外にも、誰にオススメするのかが難しい。
たとえば、若い頃の自分がこの映画を観たら、発狂するんじゃないかね。真夜中の赤信号でも守るようなマヌケな若者だったから。
というワケで、誰にもオススメしませんが、もし観て「おもしろかったよ」という方がおられましたら、ご一報を。

取り敢えず、我が子には観てもらいたいな、と思っている。
素晴らしい映画だった。
 
 

2018年7月3日
 

 
 

ページの先頭へ