COLUMN

 


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北村先生が亡くなった。
 
木曜日の朝、いつものように直樹が電話をすると
 
「北村さんはインフルエンザに罹ってしまいました」
 
と、いつもの、少しおどけたカンジの返事だったとか。
翌週はともかく、翌々週も電話がつながらないので、心配になってご自宅まで伺ったところ、
 
「肺炎になってしまい入院中」
 
と、ご家族の方から聞かされた。
それから四日後、亡くなったことを人づてに聞く。
 
「昨日、お亡くなりになりました」
 
と。
単なる偶然だが、先生と由子は同じ誕生日。その翌日に亡くなった。新聞には75歳と書かれていたが、満年齢なのか、数えだったのか。
 
北村先生は、元小学校教師。隣のクラスの担任で、ぼくも理科を教わった。
校長になり、教育長にもなったそうだから、教師としての評価も高かったのだろう。しかし多くの人は、北村先生を学校の先生としてではなく、囲碁の先生として認識していたはずだ。
 
駒ヶ根の公民館で囲碁を教えていることを知り、知ると同時に由子を連れて行った。小4になると、北村先生からお声がかかり、個人レッスン。もっとも、ぐずぐずしていてレッスンを受けるようになったのは、5年になってからだったけれど。
その後、毎週、長い休みの時は連日、対局していた。昨年、対局数が千を越えたとのことで、先生から記念品をもらった。それまでのすべての対局の記録と先生のコメントが書かれたメモ。それが綴じられたスクラップブック。
千局を超えたのは、由子が最後。直樹はまだ500。そういう意味で、由子が最後の弟子。
 
聞くところによると、自らの担任するクラスの子どもに本格的に囲碁を教えはじめたのは、ぼくが小学生の頃、ぼくの隣のクラスの担任だった時から、らしい。
衆生(ひろき)とか、オタのクラス。
衆生は連日先生の家に入り浸り
 
「あの子はどこの家の子?」
 
と、言われていたとかいないとか。
 
大人になって思うのは、子ども時代って案外楽しくない、ということ。
これは勝手な想像だが、衆生が初めて「楽しい」と思えたのは、北村先生との囲碁の時間だったのではないだろうか。
そして、おそらく、そんな衆生と同じような子どもは、少なくなかったはずだ。
 
もちろん、囲碁の何が楽しいのか分からない、という人も多いだろう。ぼく自身も囲碁が打てるわけではないので、囲碁自体の楽しさは分からない。そもそも、所詮は単なるゲームには違いない。でも、そういうことではなくて、北村先生からは楽しさがあふれていた。
授業に囲碁を取り入れたのも、囲碁の持つ教育的効果を考えて、というようなハナシではなく、単に、楽しいからやろうぜ的な発想だったのだろうと思う。
 
ぼくが教わったのは理科だけだったが、授業のいくつかは、いまも憶えている。
真空ポンプを使った、空気が音を伝えていることを示す実験とか、集気瓶の中で燃えるローソクは、ふたをすると消えてしまうという実験とか。フラスコの中で勢いよく赤い水が噴き出す、アンモニアの噴水実験とかね。
挙げ句、「10310004234949」。これは「父さん戦死兄さんシクシク」と読むのだと教えてくれた。理科関係ない。
「兄さんシクシク」はともかく、どの実験も、日本全国どこの小学校でも同じことをしていたはずだ。「実験面倒だから教科書読んでおしまい」的な手抜き授業は論外としても、実験自体は同じ。
しかし、45にもなって、小学校理科の実験風景を思い出せる者は、少ないのではないだろうか。ぼくがそれを思い出せるのは、先生が楽しそうに実験していたからに違いない。つまらない日常にもたらされた、ちょっと楽しげな雰囲気。それを記憶しているのだと思う。
 
ちなみに、以前、北村先生と衆生との3名で飲んだとき、この話をしたら、衆生はひとつも憶えていなかった。
オマエは他にもっと楽しいことがあったからな。ちぇっ、うらやましい。
そう、ぼくはうらやましかったのだ。北村先生に囲碁を教わるなんて、なんか楽しそうじゃないか、と。
あとで思えば、クラスなんか関係なく、押し掛けて教わればよかったのだが、小学生のぼくに、そういう視野の広さというのか、バイタリティーの持ち合わせはなかった。ただひたすら、衆生たちがうらやましかった。
 
3人で飲んだのは、二度。
北村先生は、どこまでいっても、おもしろエピソードの披露に終始する。
これは、教師としては稀だ。
多くの教師は、あれは職業病だろうか。すぐに「大切なこと」を教えたがる。
夢を持つことの大切さだとか、努力の必要性とか、継続することの素晴らしさとか。自立とか、個性とか…。
そんな陳腐なハナシが聞きたいんじゃない。楽しいことを教えてくれよ。北村先生のように。
 
北村先生自身も、楽しんで生きていたんだと思う。
囲碁を子ども達に教えている、という意識すらなかったかもしれない。いや、さすがに教えているという意識はあっただろうけれど、教えてやっているとは思っていなかったハズだ。
子どもを迎えに碁会所に行く。ぼくは先生にお礼を言う。お礼を言っても「どういたしまして」と言われたことがない。
いつもぼくの「ありがとうございました」に対して
 
「こちらこそ」
 
と返事をされる。
ずっとそうだからもう慣れたが、最初は戸惑った。教える、教わるという師弟関係は、どうしたって上下関係を伴うわけで、少しでも教えてやっているという意識があれば、「こちらこそ」という返答にはならないハズなのだ。
野菜をいただいたときの「ありがとうございます」には「どういたしまして」って答えていたしね。
 
奥さんと由子を連れて、葬儀会場に向かう。
バカな話をしながら歩く。
 
「北村先生の葬式だぞ。焼香の代わりに碁石を置くのかもしれん」
「どういうこと?」
「香炉の代わりに碁盤。抹香入れの代わりに碁笥が置いてあるとか」
「となると、どこに打つのかが問題だね」
「そうだなぁ」
「天元、かな?」
「これだから素人は。マンガじゃねーんだよ」
「じゃあ、どこに置けば良いのよ」
「コスミ」
「さすがお父さん。通だね」
「コスミってどこ?」
「さあ」
「知らずに言ってたの?」
「そりゃ、オレは碁打ちじゃないからね」
「さすが、お父さん」
 
実際には、フツーに焼香だったワケですが。
しかし、いけない。ぼくのような立場で泣くのも、逆に失礼かと思って我慢していたけれど、遺影を見た瞬間に涙があふれてしまって。
奥さんも、泣きながら、北村先生の奥様に挨拶をしている。
 
「こちらは一方的に、してもらうばっかりで…」
 
本当にその通りなのだ。
そしてそれは、他の多くの参列者も同じ思いだっただろう。皆、北村先生から多くのものを受け取った。一方的に。無償で。
ぼくはあんなに大勢が泣いている葬式に出たことがない。
楽しいことを教え続けた北村先生は、最後に大勢を悲しませた。
 
「先生、ダメじゃん」
 
って言ったら
 
「碁打ちは、ダメを押すものだよ」
 
って答えそうだけど。
 
多くの者にとって、余人をもって替えがたい存在を失った。
つらい春になってしまった。
 

2017年3月31日

 
 

 
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