COLUMN

 


映画「この世界の片隅に」

「この世界の片隅に」が、隣町の映画館で本日より上映とのことだったので、奥さんと一緒に観に行ってきた。
歴史ある、と言えば聞こえは良いが、要するに古い、有り体に言ってしまえばオンボロな映画館。
そんなオンボロ映画館も、思い出の場所だ。
高校時代、映画館の暗闇の中で
「彼女とキスをした」
思い出の映画館。


と、同級生に自慢された映画館だ。
 
ぼく自身はこの映画館に、何の思い入れもない。
中学の時に一度、担任教師も含めたクラスの男子数名と「ロッキー4」を観に行っている。
大学時代に帰省した際、「スピード」を観に行った。
高校時代も一度行っているはずだが、何を観たのかはまったく覚えていない。
今回が4度目の伊那旭座。
空調の轟音で台詞は度々聴き取れず、イスのせいで時間の経過と共におしりが痛くなるという苦行。1,800円。うーむ。
 
「この世界の片隅に」はことのほか評判が良かったので、是非観たいと思っていた作品だ。
映画を観るにはまったく不適な土地柄、原作のマンガを取り寄せ、先に読んだ。
原作マンガと映画版は、ほぼ同じと言って良い。尺の関係だろう、一部のエピソードが割愛されているが、ほぼ忠実なアニメ化。これで映画監督が褒められるのはちょっとねぇと思ってしまうほど、原作に忠実。
 
原作マンガを読んで思うことは、色々とあった。
その上で、今日の映画。
あれ、こんな恋愛モノだったっけ?
という印象。
いやまあ恋愛映画ではないのだけれど、結婚ってそういうものだよね、と。
大人の映画。お子ちゃまには分からない。
原作マンガを思い返してみると、マンガの方がより恋愛模様、と言うか、夫婦の感情の機微が詳細に描かれていたようにも思う。にもかかわらず、原作マンガを読んだとき、そんな印象はなかった。
この印象の差はどこから来るのだろう。文字ベースで読む台詞と、音声として聴く台詞の差だろうか。
いずれにしろ、マリッジブルー真っ只中の皆様に、強烈におすすめしたい映画だった。
 
うーむ。
ぼくはそんなハナシをしたいのではない。
ぼくが原作マンガを読んで真っ先に思い浮かべたのは、電通の過労自殺のニュースだった。
これは、社会に適応していく物語。過剰に適応していく物語だ。
物語の中では、それを「居場所」と呼んでいる。
 
主人公は、何も知らず、何も考えずに嫁いでいく。
そして、嫁ぎ先に、円形脱毛症を患いながらも、適応していく。居場所を見付ける。
ついには、戦時下の状況にも居場所を見付け、適応する。
 
人は社会に適応しなければ生きてはいけない。
生まれ落ちた環境に適応できなければ、淘汰されてしまう。
だから、ブラック企業にだって適応する。ついには、自らその命を絶つまで、適応する。
戦時下の日本がブラックな社会であったことを、現代を生きる我々は知っている。
そんなブラックな社会に生きる主人公は、本来福音であるはずの終戦の詔勅を聞いて、激高する。平和を求めながらも、戦争に適応してしまうのだ。
 
適応しなければ生き抜けない我々は、現代の日本に生きる我々は、いったい何に適応しているのだろう。
我慢や努力は美徳なのだろうか。
我慢や努力という名の下に、ぼくらはブラックな何かを許容してはいないだろうか。
ぼくは、ぼくが何に適応せざるを得ないのかに、自覚的でありたいと思う。
そして、その何かと、適度な距離を保っていたい。
そんなことを考えた。
 
良い作品だった。
 

2017年1月21日

 
 

 
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