COLUMN

 


アノミー

友人が亡くなった。確実な情報を持っているわけではないけれど、恐らく、自殺だ。

「友人」と言っても、ひとまわり上。写真関係のつながり。
連絡を取る必要があって、何度か電話をし、メールを送り、自宅のチャイムを鳴らしたけれど、連絡はつかなかった。
ぼくがコンタクトを取ろうと試みたのが5月15日。訃報を聞いたのが17日。亡くなったのは5日だったそう。Facebookの最後の更新は、1日だった。
ぼくが最後に会ったのは、二人で撮影に行ったとき。長野日報の連載用の写真撮影。それが3月25日。その友人の撮った写真が、4月3日に掲載されている。
その日、撮影は早々に切り上げ、二時間ほど話し込んだ。
と言っても、たわいのない話。写真やカメラにまつわる諸々の話。

その時、何か変わった様子はなかったのか?
少なくとも、明示的には認識していない。
でも、実は気がついていたんだと思う。
その証拠に、訃報に接したとき、ぼくには意外だとは思えなかった。「やはりそうだったか」というのが正直な気持ちだった。
連絡が取れなかったとき、8:2で「入院かな?」とは思っていたけれど、残りの「2」は「まさかとは思うけれど…」と思っていたから。
もちろん、こんなかたちで予感が的中してしまって、残念でならない。

彼との付き合いは、一年ちょっと前から。ぼくが企画した写真イベントで知り合った。
だから、それほど彼のことをよく知っているわけではない。
ただ、断片的に聞いた経歴などを思い返すと、晩年は、数年をかけて、一歩ずつ着実に、袋小路へ迷い込むように、追い込まれていったように思う。
ぼくは、自死を必ずしも否定的に捉えてはいない。
むしろ、死こそ自己決定がなされるべきケースさえあると思う。それは、生を自己決定することと表裏一体だから。
もちろん、それを「神を冒涜」と指弾する人もいるだろう。ただ、ぼくのような、特定の信仰を持たない身にとっては、「知るかよそんなこと」と思わざるをえない。

よく「何があっても死んじゃダメだ」と言う人がいる。
気持ちはわからないでもない。そういうことを言う人は、おそらく、優しい心の持ち主なんだと思う。
でも、ぼくにはそれが、死を選んだことを、当人のせいにしている、責任を押しつけているように思えてならない。

ぼくは、自殺という最期を選んだ人を責める気になれない。
一方で、誰かに「死にたい」と思わせてしまう社会を、クソ社会だと思う。
学生時代に読んだ、デュルケムの「自殺論」という本を思い出す。まぁ実際にはほとんど忘れているけれど。
その本に書かれていたことは、つまり、自殺は個人的な問題ではなく社会的な問題だ、ということ。「アノミー」という概念で説明されていたはずだ。

些細なキッカケで(例えば、直前に誰かが玄関のチャイムを鳴らすとか)、その友人がその日、自殺という選択を回避することも、場合によってはあったのかもしれない。そんな偶然が続いて、ついに自殺を思い止まることさえ、想定できなくはない。しかしそれは、彼が困難な状況から脱したことを意味しない。
死を思い詰めるような状況に追い込まれるまでに、別の選択肢はいったいどれほどあったのだろう。抗いがたいうねりが、本人の意志とは関係なく、そこへ連れて行ったのではなかろうか。

年間三万人の自殺者。
その何倍もの人々が、困難な状況に追い込まれていることは想像に難くない。
この社会のどこが悪いのか、ぼくにはわからない。
どこが悪いのかはわからないけれど、うまくまわっていないことはあきらか。
クソ社会。
ぼく自身も、そんなクソ社会を支える一員なのだ。だから、友人の死は、非常に堪える。

彼に送って届かなかったメール。書き出しは「その後お変わりありませんか。」だった。
吐き気がする。
冥福を祈りたい。

2014年5月20日

 
 
 
 

 
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