COLUMN

 


王様とリンゴ売り コロナ時代のMMT史観

新型コロナウィルスのパンデミックにより、日本でも緊急事態宣言が発令された。
その結果、仕事を休まざるを得なくなった人。そんな中でも出勤せざるを得ない人。置かれた状況は様々なれど、誰もが仕事について深く考えざるを得ない。
大恐慌、大失業時代が懸念される中、そもそも仕事とは何なのかという、仕事の本質について考えてみたい。
仕事の本質について考えることは、貨幣の本質について考えることになる。

経済学の発展とは関係なく、多くの人々は「労働価値説」を(無意識のうちに)支持している。一部、意識高い系の諸君は、労働自体に価値があるわけではなく、効用の提供こそが価値であることに自覚的だ。さらに一歩進んだ連中は、価値は期待の反映に過ぎないことを利用する。

もっとも、「意識高い系」だとか「さらに一歩進んだ連中」というふうに書いてはいるが、いずれも、目新しい考え方ではない。
「労働価値説」はアダム・スミス(1723-1790)からカール・マルクス(1818-1883)で、「限界効用理論」はレオン・ワルラス(1834-1910)。「美人投票」はケインズ(1883-1946)だ。
19世紀から20世紀初頭には、どれもすでに語られていた考え。
21世紀、語られるべきなのは、どのような考え方だろうか。

結論から述べれば、ぼくはMMT(現代貨幣理論)こそが、21世紀に語られるべき考え方だと思う。
MMTの一般的な理解は
「赤字国債をどれだけ発行しても、国が潰れることはない」
くらいだろうか。
少し気が利いた人なら
「そんなことをしたら、インフレになってしまう」
と指摘するだろう。
この指摘に対し、MMT論者はインフレへの懸念は認めつつ
「政府部門のマイナスは、民間部門のプラスだから」
と、ぼくに言わせれば、どうでもいい反論に終始する。MMTの注目ポイントは、そこじゃない。

先頃邦訳が出版された「MMT現代貨幣理論入門」は酷い本だった。ひたすら「政府部門のマイナスは云々」ということが言い訳がましく書き連ねられる。おまけに唐突に付けられた「訳注」で「原文の数式にいくつか誤りがあったため、著者に確認の上、関連する記述も含めて修正して訳出している」などと書いてある。もちろん、その項は読み飛ばすことにした。
その他の項も、退屈でバンバン読み飛ばす。
この本で読むべきは、ただ一箇所。
「租税が貨幣を動かす。」
という一文のみ。
巻頭と巻末の解説(お二方の解説はおもしろかったです)の他は、「租税が貨幣を動かす。」というただその一文だけだ。

MMTの真の注目ポイントは、貨幣の本質を明らかにしたこと。
これまでの経済学は、貨幣の本質を明らかにしてこなかった。
もちろん、貨幣の起源などは推測する以外にないのだが、MMTが明らかにした(ハズの)貨幣の本質に照らせば、簡単な推測だ。

貨幣誕生の簡単な推測を述べる。
ひとりの王様がいる。
王様の前には、男たちがひれ伏している。
王様が口を開く
「お前たち、明日から強制労働な」
拒否すれば殺される。男たちは黙って従うしかない。
続けて王様は言う
「強制労働の代わりに、子安貝10個の供出でも良いけど」
男たちは急いで家に帰って子安貝を探す。
「良かった。11個ある」
ふと、隣家を眺めると、そこの男は絶望でアタマを抱えている
「9個しかない…」
11個の子安貝を持つ男が声をかける。
「お前のところ、リンゴ作ってたよな。リンゴ10個と子安貝を交換してくれ」
「えっ、良いんですか。助かります」
かくして、(子安貝を通貨とした)貨幣経済の爆誕である。

ポイントは、支配と服従という力関係がまずあること。その上で、支配者がなにがしかのモノの供出を求めたとき、そのモノが(繰り返し求められるとか、広く流通しやすいなどの条件が整えば)貨幣となる。もちろん、モノは子安貝でも小麦でもゴールドでも、王の肖像が描かれた紙切れでもかまわない。
これがMMTの言う「租税が貨幣を動かす」であり、権力による強制こそが貨幣の本質なのだ。

ちなみに、主流派経済学の貨幣の起源についての説明は、本書の巻頭解説、中野剛司さんの(否定的な)記述を引用すれば
「原始的な社会では、物々交換が行われていたが、そのうちに、何らかの価値をもった「商品」が、便利な交換手段(つまり貨幣)として使われるようになった」
とある。
んなアホな。
余談ついでに、ビットコイン。
MMTではビットコインが通貨となり得る可能性について、明確に否定している。「権力による強制こそが貨幣の本質」という立場であれば、当然だ。
主流派経済学者がどう言っているのかは知らないが、「商品貨幣論」に立脚するなら、少なくとも(ビットコインが通貨となる)可能性は認めなければおかしいはずだが、さて。

改めて、仕事とは何かを考えてみよう。
仕事とは、対価を受け取るためのものだ。
「なあ、宝くじ当たったら、仕事どうする?」
「辞めるに決まってるだろ」
「だよね」
対価とは貨幣。1万円分の仕事をして、1万円を受け取る。
すなわち、仕事とは貨幣であると言うことができる。
そして、ここまでに明らかにしてきたように、貨幣とは権力による強制。
つまり、仕事とは、(働く本人の認識はともかく、そして仕事の内容にかかわらず、間接的な)強制労働にほかならない。
これまで、リンゴを作ることはリンゴを食べるためでしかなかった。ところが、王様から子安貝の供出を求められることによって、リンゴを作ることが強制労働を逃れるための仕事となった。リンゴ作りが強制労働と等価となったのだ。

さて、コロナ禍。
不要不急の外出先として、いくつかの業種に営業自粛が要請された。
自粛要請はされていないにもかかわらず、薬局への来店は3割減となりそうだ。これは、病院、医院への通院が3割減ったこととほぼ同義。必要至急の代表と目されてきた医療行為も、(少なく見積もっても)3割は不要不急だったということだろう。
全労働人口のうち、いったい何割ほどが不要不急な仕事に就いているのだろう。
世の中の仕事の半分は不要不急でできている、と言えるかもしれない。

もっとも、この指摘も目新しいものではない。
ケインズ経済学の説明として「公共投資は意味のないものほど相応しい。穴を掘って埋め、また掘り返すような」という主旨のハナシが良く引き合いに出される(これいまググったんだけど、論者によって若干ニュアンスが違う。ケインズ自身はなんて言ってるの?教えて詳しい人)。
100年前にはすでに、労働自体に価値があるわけでも、効用の提供こそが価値であるわけでもないということが、指摘されていたのだ。ケインズの慧眼に脱帽せざるを得ない。

念のため言っておくと、すべての仕事に意味がないわけではない。
生存に必要な分の食料の生産活動は、(生存自体に価値を見出さない、というような奇抜な前提を持ち出さない限り)意味のある仕事だ。生活を営むのに必要なインフラの維持管理も、価値ある労働だろう。最近は、このような仕事に就く労働者を、エッセンシャルワーカーと呼ぶそうだ。
また、「効用の提供こそが価値」と信じる者たちの試行錯誤によって、現代の発展がもたらされ、快適な生活を享受できていることも、疑いない。
すべての仕事に意味が ない わけではないけれど、多くの仕事には意味がない。より正確には、多くの人は、意味のある仕事を しなくても よい時代に生きているのだと言うことができる。
おそらく、時代を遡れば遡るほど、より多くの割合の人員が、意味のある仕事に駆り出されていたはずだ。換言するなら、意味のない仕事に就ける人が多ければ多いほど、それは豊かな社会なのだ。

子安貝を通貨とする貨幣経済を生きる男たちは、その後どうなっただろう。
とにかく、次の呼び出しまでに子安貝10個を用意しなければならない。
海岸に出かける。
「旦那、何しに来たの?」
「子安貝探しに来たんだけど」
「今頃来たってダメさ。ここいらはもうあらかた掘られちゃったからね」
「うっ…」
「もっとずーっと遠くへ行かなきゃ」
「そうか…」
男は家に帰る。ムダだ。もっと遠くに行っても、きっとすでに取られたあとだ。
家に帰った男に、隣家の男が声をかける。
「どうでした?」
「ダメだった。諦めるよ」
「諦めるのは早いかもしれません。先日のリンゴ、どうしました?」
「そのまま家にあるけど」
「そのリンゴを市場で売って下さい」
「え?」
「リンゴ10個を子安貝2個で売るのです」
「…」
「子安貝を余らせている人が、きっと買ってくれるはずです。あなたのように」
「ほう」
「そして、もう一度私からリンゴ10個を買って下さい」
「!!」
「私がリンゴを作る人。あなたはリンゴを売る人。二人とも強制労働は免れます」
「おおお!」
一方で王様。
国庫には子安貝が積み上がり、ご満悦。
「王様!」
「なんだ、大臣」
「不届き者が現れました」
「どんな?」
「他人の子安貝を強奪しようとした男です」
「ふーむ」
「如何いたしますか」
「よし、その男も含めて、子安貝を持たない者を全員集めろ」
「ははっ」
集められる男たち
「お前たちは子安貝を持たないらしいな」
「ははー」
「子安貝が欲しいか」
「ははー」
「求めよ、さらば与えられん」
「ははー」
「あそこに穴を掘れ」
「ははー」
「掘ったら埋めろ」
「は?」
「良いのだ。余はそれを眺めるのが好きなのだ」
「ははー(ヘンな王様だな)」
穴を掘って埋めた男の内の何人かは、対価として受け取った子安貝を元手に、先のリンゴ売りの男たちのように自律的に稼ぐようになる。うまくいかなかった男は、また穴を掘って埋め、対価としての子安貝を受け取るだろう。
初期段階では、王様のすべきことはこのふたつだけ。
まずは子安貝を供出させること。そして、子安貝を持たない者に、仕事を与えること。

穴を掘って埋める、というのは、もちろんものの例えだ。ケインズがそう言った(らしい)のでそのようなハナシになっているに過ぎない。
意味のあるなしは関係なく、生きていくために仕事をしなければならないということの比喩だ。
現代社会においては、王様に命じられる、分かりやすいカタチでの強制労働にお目にかかることはない。しかし、実情は変わっていない。
たとえば、経済苦を理由とした自殺。これは、強制労働を拒否して王様に殺されるのと、本質的には同じことなのだ。

さて、子安貝本位制経済を生きる男たち。
リンゴを売る男は、その後大きく手を広げる。
リンゴの他に、梨、みかんも仕入れて売るようになる。
こうなると、もはや一人では回っていかない。人を雇う。
「小僧、魚を仕入れてきてくれ」
「はいっ」
雇用する人数はどんどん増える。
「番頭さん」
と、かつての小僧に声をかける。
「ちょっとこれを見てくれ」
「なんですか、これは?」
「設計図さ」
「なんの?」
「便利マシーンの」
「?」
「便利なマシーンさ」
「ほー」
「これを作って売ろうと思う」
「なるほど」
便利マシーンは爆発的なヒット。なにしろ、便利なマシーンなのだから。
かつてリンゴを売っていた男は、こうして巨万の子安貝を手に入れる。
こうなると、もはや男にとって不可能なことはない。もちろん、人智を越えることが可能になるわけではない。しかし、人間に可能だと思われることのすべてが、彼には可能となる。子安貝を払いさえすれば良い。子安貝が尽きるまで、彼は王様と変わらない。
ここで、王様は考え込む。
「(さて、どうしたものか…)」

王様はリンゴ売りが持つ子安貝を取り上げるべきだろうか。そもそも、取り上げることは可能だろうか。それ以前に、取り上げても良いのだろうか。
取り上げるべきかどうか、ここでは保留にしておこう。またあとで考えてみたい。
取り上げることが可能かどうか。これは簡単だ。取り上げたければ取り上げれば良い。
では、取り上げても良いのだろうか。

取り上げても良いのかという問題について、(結論が出ているのかどうかは知らないが)すでに議論はされている。
マイケル・サンデルが「これからの「正義」の話をしよう」でリバタリアンのノージックの主張を次のように紹介している。
「働いて得た所得に対する課税は強制労働と同じである」
サンデルによるリバタリアンの主張の説明が続く。
「私の所得の30パーセントを取り上げる代わりに、私の時間の30パーセントを国家のための労働に費やすよう命じても同じなのだ。しかし、国家のために働くことを強制出来るなら、国家は事実上私に対する所有権を主張していることになる」

リバタリアンの言う「課税は強制労働と同じ」、これは正しい。ここまでに繰り返し述べてきたこととまったく同じだ。ただ、リバタリアンは、強制労働などとんでもない、という考えがベースにあっての「強制労働と同じ」という主張であろう。ここはまったくの勘違いと言える。
そもそものスタートを思い出して欲しい。カネ(物語では子安貝)を出せ。カネがないなら強制労働。どっちも嫌なら、死ね。理不尽かもしれないが、それを受け入れた者だけが生き残った。王からの理不尽な要求1) を受け入れた者の子孫だけが、今この時代を生きているのだ。

サンデルは、政治哲学者ジョン・ロールズの「格差原理」を紹介する
ロールズの「格差原理」とは、サンデルによると「社会で最も不遇な人々の利益に資するような社会的・経済的不平等だけを許容するという考え方」。

ロールズは、平等主義をその理念とするが、平等主義を標榜した社会主義国家がことごとく失敗したという現実を考慮し、格差自体は認めるという結論に至ったと思われる(ホントのところは知りません)。
格差は認めるので稼ぐのは自由ですが、課税しますよ。それを福祉に回しますよ。
この考え方は、実にマトモに見える。実際、現在地球上のほとんどの国で採用されているのは、ロールズのこの考え方に近いものだろう。リバタリアンなどの声が大きく、富裕層への減税などが進められているとは言え、累進課税がゼロになったと聞いたことはない。ゼロでない以上、リバタリアンの主張よりもロールズの主張が採用されていると言える。

何度でも繰り返すが、貨幣は支配者が被支配者から強奪することによって生まれた。すなわち貨幣とは権力そのもの。貨幣を大量に持つ者が権力を有するというのは、実感としても分かりやすいと思うが、貨幣を持つことは権力者から権力の貸与だ、と言い換えることができる。

リンゴ売りの男が、巨万の子安貝を集めたことによって、まるで王のように振る舞えるのは、王様の力を借りているからに過ぎない。
まさに、虎の威を借る狐。
王様は、貸しているものを返却させることをためらう必要はない。
トラは、キツネが気に入らなければ、ただちに食い殺すことができる。そのことを誰かに相談する必要もない。その姿を、ある者は「リヴァイアサン」と呼ぶかもしれないが。

王様はリンゴ売りが持つ子安貝を取り上げるべきだろうか。
これは状況によって異なる。あらかじめ正解があるわけではない。
目障りだという理由で、殺して取り上げてしまえば、人心の離反を招くかもしれない。あるいは、リンゴ売りの横暴が目に余るものだったなら、そこから取り上げることで、拍手喝采となるかもしれない。
リンゴ売りの蓄財を、見て見ぬフリをするのが正解である場合が多いだろうか。リンゴ売りは、隣国で開発された「文化女中器 2)」に対抗して「便利マシーン2」をつくるかもしれない。そのマシーンは王国の厚生に大きく寄与するだろう。

どうしても強調しておきたいことがある。それは、やり方の正解は事前に決まっているわけではない、ということだ。
20世紀後半から現在に至るまで、自由経済の正しさは、証明され続けてきたと言って良い。しかしそれは、21世紀を通じての正しさを保証はしない。
自由経済は競争を原動力としてイノベーションを起こし、結果的に人々の厚生に寄与してきた。
しかし、そこには前提条件があったのではないだろうか。すなわち、フロンティアがあるという前提ならば、競争でそこを開拓していくことは正当化できる。もし、フロンティアはもはや残されていない、という場合、はたして自由経済を正当化し続けることは可能だろうか。
ロバート・J・ゴードンは「アメリカ経済 成長の終焉」で、「将来の発明は過去の大発明に匹敵するか」という問いを立て、否定的な見方を示している。
フロンティアが(一切ないとはもちろん言わないが)乏しい状態で、自由経済を正当化することは、ぼくには難しいように思う。

「便利マシーン5」は厚生に寄与した。しかし、「便利マシーン6」は「5」の色違い。ましてや、「便利マシーン7」に期待すべき効用はほとんどない。そんな状況で、リンゴ売りの男に、巨万の子安貝を持たせておいて良いのだろうか。
もちろん、これは科学ではなく正義の問題だ。残されたフロンティアを、広大と思うか乏しいと考えるかという現状認識の問題でもある。

自由経済か計画経済か。民主制か独裁制か。自由主義か共和主義か。「イデオロギーの終焉」が言われて久しいが、とかく路線対立はなくならない。
しかし残念なことかもしれないが、あらゆる路線対立には意味がない。もちろん、その時々の状況で有利なやり方というのはあって、何が有利なやり方なのかを議論することには意味があるかもしれない。しかし、いかなる路線であれ、本質的には同じなのだ。いずれの路線であっても、それが貨幣経済のもとであるなら、王からの理不尽な要求を受け入れているという点において、違いはない。いかに憲法でがんじがらめにし、法治の体裁を整えてみても、本質は変わらない。

少しハナシを戻そう。
王様の王国運営だ。
「王様、西の海岸で子安貝が大量に見付かりました」
「なにっ!」
電光石火、王様は兵を率いて西の海岸を急襲。集まり始めていた男たちを駆逐し、西の海岸を制圧する。
もしも西の海岸を制圧しなかった場合、子安貝の価値は暴落しただろう。王様は気付く。貨幣の出所は、なんとしても独占せねばならぬ、と。しかし、子安貝の産出場所を完全に制圧することにはムリがある。
王様は、貨幣の製造に乗り出すことにする。造幣だ。
すでに、子安貝を通貨とする経済が浸透しているため、最初の貨幣は子安貝との交換を約束する兌換紙幣を。その後、子安貝本位制から離脱し、不換紙幣を発行するようになる。
ここまで来ると、物語は必要ない。我々が良く見知った世界だ。

さて、MMTにまつわる、一般的には最大であろう疑問に答えておこう。
本当に「財政赤字は問題ない」のだろうか。
ここまでに、貨幣の本質を理解したならば、「問題ない」以外の結論がないことは自明。
そもそも王様や国家の視点から見れば、赤字ではなく黒字だ。貨幣とは、王から臣民への、国家から国民への、権力の貸与なのだから。借り入れではなく、貸し付け。
たとえば、日本の財政赤字が900兆円。ひとり当たりに換算すると700万円。というようなことが言われる。これは、日本国による国民への貸し付けが900兆円。国民ひとり当たり700万円の国に対する借金、と理解するべきなのだ。

インフレが貨幣(通貨)の供給量で決まると思っている人は多いかもしれない。
しかし、インフレの原因は、国家に対する信用不安だ。
たしかに、貨幣の供給が過剰でインフレが起きているように見えるケースもある。その場合も、貨幣の供給が過剰であることを理由として国家に対する信用不安が起き、そのことがインフレを引き起こす。
たとえば、貨幣の供給量が適正(なにが適正かはさておき)な国があったとする。その国が隣国に攻め滅ぼされたとき、その国で流通していた貨幣は、紙くずに。インフレどころの騒ぎではない。
逆に、強大な国力を背景に、GDPの240%にものぼる「債務」を積み上げても、ビクともしない国がある。その国はインフレどころかデフレだ。

重要なのは、国が(滅びることはないだろう程度には)信用されていること。政情不安がないこと。
国家は強くなければならない。
重要なのは、軍事力。他国に滅ぼされないため、国を支配するため。
軍事力というのは、ひとつの例だ。隣国が突然戦車で越境してくることなどあり得ない、というのであれば、(対外的な)軍事力は必要ない。
現代社会では、特許の数や食糧自給率の方が、より重要かもしれない。

人々が国家に対して警戒感を抱くのは分かる。
これまでの歴史上、人々はずっと、国家に振り回され、国家間の紛争に巻き込まれてきた。
国家の暴走に歯止めをかけるべく様々な政体が試され、国家を暴走させないために憲法を制定した。
しかし、いくら取り繕っても、いくら精緻な法体系を整備しても、逃れられない現実がある。それは、国家と人は対等ではないということ。人は国家に支配されているということ。国家の理不尽な要求を受け入れたからこそ、我々はいまここに生きているのだから。

ひとつだけ、忘れてはいけないことがある。
なぜ、我々は、理不尽な要求を受け入れたのか。
それは、生き延びるためだ。生き延びるために理不尽な要求を受け入れた。
生き延びるためには、理不尽な要求を受け入れる以外になかった。
思い出そう。理不尽な要求を受け入れたのは、生き延びるためだったことを。
もしあなたが、いま現在、生き延びることが困難な状況に追い込まれているのだとしたら、国家に従う必要などない。生き延びるために支配を受け入れたのであって、生き延びられないなら、支配され続ける理由なんてないじゃないか。国民を切り捨てる国家、そんな国は滅ぼしてしまえ。

コロナ禍に見舞われる日本。
このまま沈没して、良いワケがないと思うのだが。
STAY HOMEに給付を。
エッセンシャルワーカーに、2倍の給付を。
なんとかみんなで生き延びたい。

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1)王からの理不尽な要求 ぼくが「理不尽な要求」と書くとき、念頭に置いている人物がいる。米国ドラマ「ウォーキング・デッド」の登場人物ニーガンだ。ニーガンは事実上の王であり、他人を支配しない限り自らが滅ぼされる、という以上の説明をここではしないが、観れば分かる。ただ、ニーガンの登場はシーズン6最終話からなので、なかなか出会えないが…。

2)文化女中器 ロバート・A・ハインラインが1956年に発表した「夏への扉」に登場する家事用ロボット。原文ではHired Girl。
 
 

2020年5月2日
 

 

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