COLUMN
その関係、本当に楽しいですか?
「荒木経惟、長年のミューズからの「#MeToo」」という記事が話題になっている。
ぼくは写真が趣味だ。写真が趣味でアラーキーを知らない人はいない。そして、アラーキーを知っている人なら、今回のKaoRiさんの告発を事実だと直感したはずだ。
KaoRiさんの告発に対し「うそだ。信じられない」とか「芸術の裏側がこんなことになっていたなんて」てなことを言う人がいるのだとしたら、それはあまりにもウブというか、何も見ていなかったに等しいだろう。
ぼくもテレビ画面に映ったアラーキーしか見たことはないが、KaoRiさんの書いたアラーキーの台詞は、アラーキーの声で脳内再生された。なんの違和感もなく。
だから、告発の内容について驚きはない。
せいぜい、「アラーキーって、案外ケチなんだな」くらいの驚きだろうか。
もちろん、告発されたという事実について、驚きはあったが。
写真について考えてみたい。
一番の前提は、カメラさえあれば誰でも撮れる、ということだ。
他の芸術のように、誰かの真似をしようとどれだけ練習しても真似できない、という類いのものではない。
同じカメラ、同じレンズ、同じタイミングで隣りにいれば、誰でも同じ写真が撮れる。もちろん、厳密にはふたつと同じ写真はないかもしれないが、並んで撮った写真を区別できる人はいない。他人はもちろん、時間が経てば撮った本人すらも。
そういう、誰にでも撮れるという前提で、誰も見たことのない写真を見せることが、芸術としての写真の本質だと思う。
ぼくが今までに撮った写真の中で、一番褒められたのは、岳父の葬儀の準備風景だ。
「勇敢」「よく撮った」「なかなかできることじゃない」と絶賛された。
もっとも「勇敢」というほどのことでもない。親戚のおじさんに「撮ったら良いよ」と声をかけられたから撮れたに過ぎない。
亡くなる数日前、岳父を見舞った。
瀕死の岳父は、妻と三人の娘(義理の母と、娘三人のうち一人がぼくの妻)に囲まれていた。西日が差し込み、病室全体が黄色くなる。「すごい景色だな」と思ったけれど、ぼくにそれを撮影する勇気はなかった。
あれを撮っていればもっと褒められたかな、と思わないでもない。でも、振り返ってみても、あそこでカメラを構え、シャッターを切ることはぼくにはできない。
KaoRiさんは「たくさんの人がいる前でわざと過激なポーズをとらせて、自分の手柄にするような言動をされた」と書いている。
まさに、それこそがアラーキーの手柄だったわけだ。
KaoRiさんさえいれば、アラーキーと同程度の写真を撮れるカメラマンは大勢いるはずだ。
しかし、KaoRiさんを連れて来て、説得して、そういうポーズを取らせることは、アラーキーにしかできなかった。
新婚旅行で、妻とのセックスを撮影する。その写真で写真集をつくり、自費出版。職場の上司に売りつける。その上司は妻の上司でもある。職場結婚だったから。
その妻は癌にかかり、亡くなる。入院してから死ぬまで。そして棺桶におさめられた妻の死に顔も撮影。これも写真集になった。この写真集、涙なしでは見られない。ぼくが写真集を見て泣けたのは、後にも先にもこの一冊。もっとも、篠山紀信は「最悪だ」と激高しているが。
妻の陽子さんも、モデルのKaoRiさんも、アラーキーとの関係性の上で、あのような写真を撮らせている。
その関係を信頼関係と呼ぶのは、いささか抵抗がある。ある種の共犯関係と呼べば良いだろうか。
そんな共犯関係で撮られた写真を、アラーキーは「私写真」と呼んだ。
今回の一件で、「私写真はもう終わった」「もうそういう時代じゃない」という指摘をいくつも見た。
そうなのだろうか。
そうだとしたら、とても悲しい。
「でてくる顔、でてくる裸、でてくる私生活、でてくる風景が嘘っぱちじゃ、我慢できません」って、ぼくも思う。
「私写真」以外の写真に、どれほどの価値があるのだろう。
「いいね!」くらい?
これは荒木経惟のセクハラとかパワハラという問題ではない。
ハリウッド発の「#MeToo」は「映画に出たければオレと寝ろ」というのがその基本構造だ。アラーキーとKaoRiさんの間には、告発文を読む限り、そういう取引はない。やはり、そこにあるのは共犯関係だ。
今回の一件は、「コミュニケーション全般についての問題」だと、ぼくは思っている。
親しき仲にも礼儀あり、とか、傷つくのが怖いから深入りしない、というのは、特段間違った態度とは思わない。だけど、そういうコミュニケーションばかりを積み重ねた果てに、絶望的な寂しさを抱えることにはならないだろうか?
いつか、誰かと、傷つくことを恐れず深入りし、非常識な行為に耽り、秘密を共有する。そういう、共犯関係になるべき相手を見付けることこそが人生だ、とぼくは考えている。
アラーキーはKaoRiさんとの長い共犯関係で、いくつもの作品を生み出した。それによって、天才の名を欲しいままにし、栄光をつかみ取った。リスクを恐れず、チャレンジした結果だと思う。お見事。
ただ、ここに来て、関係は破綻し、リスクは顕在化した。
責任取れよ。いいとこ取りはダメだぜ。
持ってる財産、半分渡せ。むしろ、あらかた渡したって良いんじゃねーの?どうせこの先、そう長くはないんだからさ。
妻の陽子さんが、まだ生きていたら。とうの昔に、すったもんだの挙げ句、離婚していたかもしれない。
アラーキー自身が、5年前に発病した前立腺がんで亡くなっていたら。KaoRiさんとの共犯関係を全うできたのかもしれない。
関係というのは、不変じゃないからなぁ。
KaoRiさんはアラーキーの元でモデルを16年やっていたそうだ。
単なる偶然だが、ぼくと奥さんも今月末で、結婚して16年。
記念日の夜には、一緒に映画でも観ようかと思う。
ぼくは「蒲田行進曲」が好きなんだよね。
時代にそぐわないのかもしれないけれど。
2018年4月11日