COLUMN

 


夜の校舎窓ガラス拭いてまわった

「日野皓正ビンタ事件」の盛り上がりに便乗して、ぼくも考えてみたい。
もっとも、この事件がなくても、教育の問題はぼくにとって大きな関心事であり、定期的に繰り返し考えてしまうネタだ。繰り返し考えてしまうということは、明確な結論が出せない、ということなのだろうけれど。
だから、今回もまとまりのない結論になるに違いないが、それはそれとして、いま現在の考えを書き記しておくことは、それなりに有意義なことだ思うので、書いてみよう。
 
昔から教育について思いを巡らせていたのは、父が中学校教師だった影響なのかもしれない。ただ、一般に教育と言えば学校教育を指すのだろうが、ぼくはもう少し広い意味で、教育を考えてきた。
例えば、野球チームの監督。当時の子供としては珍しかったけれど、ぼくは、選手よりも監督に注目していた。監督がチームにもたらすものを教育とは言わないのだろうか。ぼくはそれも教育と呼びたいと思う。
 
監督に注目したキッカケは良く憶えている。西武ライオンズの初優勝だ。
ジャングル大帝がマーク、というなんとも子供らしい理由で、ぼくは新しく誕生した西武ライオンズを応援していた。しかしこれが弱い。毎年ぶっちぎりの最下位。応援をはじめて3年、さすがにその弱さに辟易しはじめていたら、突然優勝した。驚いた。監督は広岡達朗だった。
聞けば、ヤクルトスワローズの初優勝も広岡監督とのこと。そして、広岡監督の退任以降、スワローズは優勝していない(次の優勝は野村克也監督の14年後)。一方のライオンズは、初優勝から黄金時代へと突入していく。
これはスゴいぞ、と思った。
だから、好きなスポーツが野球からサッカーにかわった今も、メッシよりモウリーニョだし、ポドルスキーより尹晶煥だ。
そもそも、監督より選手に注目するなんて、将棋で言ったら棋士より飛車だの角だのの駒に入れ込むようなものじゃないか、というのは、さすがにイヤミが過ぎるだろうか。
 
学校生活でも、教育の大切さを痛感することになる。
小学校五年から六年になるとき、当時、ぼくの小学校でクラス替えはなかった。クラス替えはないのに担任が交代した。それまで担任だった女性教師が、結婚を機に転勤したからだ。後任は爺さんだった。
それまでもそれほど良いクラスだったワケではない。それでも、まぁなんとかやってきたクラスは、六年の最初の一ヶ月で、今で言う学級崩壊をした。
進学先の中学でも、新任教師が担任になったぼくのクラスは、早々に荒れていた。
小学校にしろ、中学校にしろ、クラスに、いわゆる札付きのワルみたいなのはいなかった。とんでもない問題児がいて、そいつに引っかき回されていたワケではないのだ。にもかかわらず、学級崩壊。
 
構成メンバーが同じでも、指導者が替わった途端に、良くなることも悪くなることもある。
それは、指導者による教育の重要さを示す証左だと、ぼくは確信している。
 
ぼくが教育を考えるとき、いつも頭に浮かぶ名前がある。
ルイス・スアレスという、FCバルセロナに所属するウルグアイ人ストライカーだ。
スアレスを「現役世界最高のストライカー」と言って異論のある人は少ないだろう。仮に異論があるとして、じゃあ誰が最高なのか、と名前を挙げさせても、挙がる名前はせいぜい2人か3人。5人は挙がらない。そういうレベルのスーパーな選手だ。
そのスアレス。超がつく問題児。
一番有名な問題行動は、噛み付くこと。これは相手に食ってかかる的な意味の比喩ではなく、文字通り、歯で相手の体に噛み付くのだ。マイク・タイソンがホリフィールドに噛み付いた、あれだ。
 
たとえばの話だが、ぼくが少年サッカーチームの指導者だったとしよう。
そのチームにスアレス少年が加入する。ある試合で、スアレス少年は対戦相手に噛み付く。亀田コーチはどうするだろう?
間違いなく「オマエにサッカーをやる資格はない!」とかなんとか激怒するはずだ。もしかしたら、一度目はそれでも許すのかもしれない。でも、さすがに三度目は、その時点でどれほどサッカー選手としての頭角を現しはじめていたとしても、ぼくはクビにするだろう。
こうして、亀田コーチは、世界最高のストライカーの芽を摘むのであった。
という場合、正解はどの辺にあるのだろうか?
ちなみに、スアレスはプロになってから、すでに3度噛み付きをやらかしている。
 
スアレスに泣かされた、迷惑をかけられた人は多かっただろう。
一方で、(サッカーに限らず)才能を摘まれたスアレスのような少年も、少なくないにちがいない。
何が正解なのかは分からない。おそらく、何が正解なのか分からないということこそが、教育の本質ではないだろうか。
 
ぼくは、暴力の有効性は、相当程度あると思っている。
おそらく、ぼくと同世代の多くの人がそうであったように、ぼくも、両親や教師から殴られて育った。そして、ぼく自身、娘も息子も何度か殴っている。
そういった経験からも、暴力の有効性を疑わない。
戸塚ヨットスクールですら、ほとんどの子供に対して有効だっただろうと思う。もちろん、暴力がすべての子供に対して有効だったハズもなく、有効でない子供に対して暴力がエスカレートし、死に至らしめたことは論外ではあるけれど。
 
暴力の有効性。それは、サーカスにおける動物の調教と同じ意味だ。
調教によって、ヒトと比べて知能が高いとは言えない動物すら、言うことを聞くようになる。ヒトに有効なのは言うまでもない。
一方で、調教と教育の線引きを暴力の有無としよう、というのが、ここ数年の日本のルールだろうと思う。
ぼくは、そのルールを受け入れたい。
 
暴力の有効性を認めつつ、暴力を禁止するルールを受け入れる。
なぜか。
先にも述べたように、教育の本質とは、何が正解なのか分からないこと、だと思うからだ。
 
日野皓正も、日野を擁護する連中も、教育の正解を自分は知っている、と思っているのだろう。
しかし、残念ながらそれは大きな勘違いだ。
 
繰り返すけれど、教育の本質とは、何が正解なのか分からない、というところにある。
他人に迷惑をかけないというのは、もちろんひとつの価値ではある。しかし、最も他人に迷惑をかけない者が、最も活躍するわけではない。スアレスだけではない。スティーブ・ジョブズだって人格破綻者だったと言われているじゃないか。
スアレスやジョブズの活躍を、その少年時代に見通せる人はいない。であれば、指導者は絶対的な正解を知らないことになるわけで、知らないなら、ルールを守るべきなのだ。指導者のルールからの逸脱は許されない。たとえ、生徒がルールから逸脱したのだとしても。
スアレスやジョブズの芽を摘まないために。
 
八幡謙介さんによれば、ジャズの本質とは逸脱であるらしい(https://t.co/z2dIBp1GUv)。なるほど。
しかし、逸脱が本質であるのは、なにもジャズだけではない。
先にジョブズの名前を出したが、テクノロジーだって、その本質は逸脱だろう。イノベーションとは、支持を集めた逸脱に他ならない。
あるいは、ルールを守ることが大切なのはその通りだとして、はたして、そのルール自体が妥当と言い切れるだろうか。
何が正解かが分からなくなりつつある流動的な社会では、人生のあらゆる場面で、逸脱できることこそが重要だと思う。
 
直樹はサッカーのクラブチームに所属している。
人数が少ないので、試合に出してもらえる。ポジションは不定。足りないところをやる。先日の試合ではサイドバックだった。
点差が開いたところで敵陣に入り込み、ゴール前でうろちょろし始める。
すぐさまコーチに怒られる。
「オマエはサイドバックだぞ。うしろで守ってろ」
二度ほど怒鳴られ、直樹は自陣に帰っていった。
ぼくとしては、言い返して欲しいな、と思いながら見ていた。
言い返すといったって、なにも「うるせーバカヤロー」と言えというわけではない。
「ぼくは前でプレーしたいです」
「いま点差は何点あります」
「もし必要なら、前の選手をうしろに下げてください」
くらいは言って欲しいな、と思うのだけれど、高望みしすぎだろうか。
あるいは、コーチ無視してプレーを続けるとか。
もちろん、その結果がどうなるのかはぼくにも分からない。コーチがアホなら、喧嘩になるだろう。そうなるならそうなったで、辞めれば良いと思うんだけど…。
 
いずれにしろ、和を乱さないとか、指示を忠実に実行するなんてことよりも、そういう逸脱ができるチカラこそが、これからの日本社会を生き抜いていく上で必要なんじゃないかとぼくは思っている。ブラック企業みたいなのに潰されないために。
 
話がズレた。結論を述べる。
中学生を殴った日野皓正は、「(仮に)いくら動機が正しくてもダメなんだ(c)麻生太郎」し、日野を擁護することも否定されるべきだ。
もちろん、3年前に息子を殴っているぼくに、そんなことを言う資格はない、という批判は甘受しなければならない。
そもそも、ウチの奥さんに言わせれば、ぼくは完全に日野タイプの人間らしい。
 
「授業参観でよその子怒鳴りつけて、小学校を出禁になったことを忘れたの?」
 
罪を犯したことのない者だけが日野に石を投げなさい。
アーメン。
 
 

2017年9月4日

 
 

 
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